LOGIN葬儀の翌日の午後六時四十七分、玄関の鍵が回る音がした。
西村香織は、その音を聞いた瞬間、台所で包丁を持ったまま動けなくなった。
夫の康介が帰宅するときは、いつもだいたいこの時間だった。
早ければ六時半。遅くても七時を少し回る程度で、残業になる日は必ず連絡を寄越した。玄関の鍵を開けてから靴を脱ぎ、廊下を歩きながら「ただいま」と言うまでの間まで、結婚して十二年も経てば身体のどこかで覚えている。
だからこそ、間違えるはずがなかった。
鍵が回った。
扉が開いた。
そして閉まった。
しばらくして、廊下の向こうから七歳の息子・悠斗が走ってきた。
「お母さん、お父さん帰ってきたよ」
香織は包丁をまな板へ置いた。
「……何言ってるの?」
「だから、お父さん」
悠斗は当たり前のことを説明する子供のように、少し面倒そうな顔をした。
「玄関にいるよ」
「悠斗」
「ほんとだって」
香織は息子の肩を掴んだ。
「お父さんは帰ってこないの」
「なんで?」
「昨日、お別れしたでしょう」
「でもいるよ」
「いないの」
自分でも驚くほど強い声が出た。
悠斗が黙る。
香織はすぐに後悔した。
夫が事故で亡くなったのは一週間前だった。
通夜。
葬儀。
火葬。
七歳の子供にとって、それらがどこまで「死」という事実へ結びついているのか、香織にも分からない。
理解したくないのは自分も同じだった。
「ごめんね」
香織は息子の肩から手を離した。
「お母さん、ちょっと疲れてるの」
「でもお父さん、靴脱いでるよ」
香織の背中を冷たいものが走った。
玄関を見た。
誰もいない。
ただし、夫がいつも革靴を置いていた場所に、何もない空間を避けるように、悠斗の運動靴が少し横へずれていた。
「お父さん、今日しゃべらないね」
悠斗はそう言うと、誰もいない廊下の奥を見ながら首をかしげた。
◇
二日目も、午後六時四十七分だった。
玄関の鍵が回る。
扉が開く。
そして閉まる。
香織には、それしか聞こえなかった。
悠斗には、そのあとも見えていたらしい。
「お父さん、今日はご飯食べないの?」
夕食中、突然そう言った。
香織の箸が止まった。
「誰に言ってるの」
「お父さん」
「どこにいるの?」
悠斗が食卓の向かい側を指した。
そこは康介がいつも座っていた席だった。
空いている。
「座ってるよ」
「……どんな顔してる?」
「普通」
「普通って?」
「いつものお父さん」
「服は?」
「会社の服」
「スーツ?」
「うん」
夫は事故の日もスーツだった。
香織は食欲を失った。
息子の話が作り話なら、叱れば済む。
寂しさから父親がいると思い込んでいるのなら、時間をかけて受け止めればいい。
しかし、玄関の音だけは香織にも聞こえている。
三日目になると、もう偶然だとは思えなくなった。
四日目。
悠斗は、誰もいない席へ向かって笑った。
「お父さん、またそこ?」
香織はその夜、眠れなかった。
◇
「ご主人が亡くなった事故について、もう一度教えていただけますか」
数日後。
久世相談室で、環は香織の話を遮らずに聞いていた。
香織は三十八歳。
夫の康介は四十一歳だった。
会社から車で帰宅する途中、関東地方某県の山沿いを走る県道で事故を起こした。
単独事故。
カーブを曲がりきれず、ガードレールへ衝突したという。
救急搬送されたが、間に合わなかった。
「飲酒運転ではありません」
香織は強く言った。
「警察からもそう聞いています。夫は酒を飲んだら絶対に運転しない人でした」
「分かっています」
環は頷いた。
「誰も疑っていませんよ」
「すみません。親戚に一人だけ、『疲れてたんじゃないか』『何か考え事してたんじゃないか』って何度も言う人がいて……」
香織はそこで言葉を止めた。
「私、事故のことを勝手に夫のせいにされるのが嫌なんです」
「当然だと思います」
環は声を落とした。
「まだ何があったか分からないのに、亡くなった人へ理由を押しつけるのは簡単ですから」
隣では蓮が、事故地点をスマートフォンの地図で確認していた。
「ここ、結構有名な道ですね」
香織が顔を上げる。
「有名?」
「心霊スポットとしてです」
「蓮さん」
環がたしなめる。
「すみません。でも、この辺りの旧道と峠は昔から噂が多いんですよ。白い服の女を見るとか、後部座席に誰か乗るとか」
「夫はそんな話、信じてませんでした」
「それは関係ありません」
環が答えた。
「信じていなくても、事故は起きますし、怪異も起きるときは起きます。ただし、事故の原因を最初から霊にするつもりもありません」
香織は頷いた。
「悠斗は、お父様と会話していますか?」
「いいえ。そこが変なんです」
「返事をしない?」
「はい。悠斗が話しかけても何も言わない。ただ帰ってきて、靴を脱いで、食卓に座るらしいんです」
「毎日同じ?」
「ほとんど」
「ほとんど、ということは違う日があった?」
香織は迷った。
「昨日だけ、食卓に座ったあと、廊下へ行ったって」
「どこへ?」
「悠斗の部屋の前です」
環の表情がわずかに変わった。
「中には?」
「入らなかったそうです」
「ご主人は、生前、帰宅後によく悠斗君の部屋へ行きましたか?」
「いいえ。ご飯のあとなら行くこともありましたけど、帰ってすぐは必ず食卓でした」
「それなら、少し気になりますね」
香織の手が膝の上で強く組まれた。
「やっぱり、夫じゃないんでしょうか」
環はすぐに答えなかった。
「まだ決めないほうがいいです」
◇
その日の午後、西村家を訪れた。
新しい住宅が並ぶ静かな一角だった。
築八年。
白い外壁。
小さな庭。
玄関脇には、康介が休日に手入れしていたという背の低い植木が並んでいる。
「中へ入る前に、一ついいですか」
環が香織に尋ねた。
「はい」
「ご主人の遺骨は?」
「仏壇の前にあります。四十九日までは家に置くつもりです」
「分かりました」
家へ入った瞬間、環は玄関で立ち止まった。
「先生?」
蓮が後ろから声をかける。
「……います」
香織の顔色が変わる。
「夫が?」
「分かりません」
「でも誰かいるんですよね?」
「ええ」
環は靴箱の横を見た。
そこに男が立っている。
四十代くらい。
黒いスーツ。
髪型も、香織から見せてもらった康介の写真とよく似ている。
しかし顔が見えない。
顔があるべき場所だけが、ぼんやりと曇ったガラスのように揺れている。
そして何より、足元が濡れていた。
スーツの裾から、ぽた、ぽた、と水が落ちている。
「先生」
蓮が環の顔を覗き込んだ。
「どうしました?」
「ご主人の写真をもう一度見せてください」
香織がスマートフォンを取り出した。
環は写真と男を見比べる。
体格。
身長。
服装。
姿勢。
似ている。
似ているのに、違う。
「香織さん」
「はい」
「事故の日、雨は降っていましたか?」
「いいえ。晴れていました」
「道路も濡れていない?」
「警察からは、路面状態は良好だったと聞いています」
環の胸に嫌なものが沈んだ。
玄関の男は、何も言わない。
ただ、ゆっくりと首を動かし、二階を見た。
悠斗の部屋がある方向だった。
◇
午後三時すぎ、悠斗が学校から帰ってきた。
「久世さんだ」
玄関へ入るなり、少年は目を丸くした。
「お母さんがテレビの人呼んだって言ってた」
「テレビの人、というより相談を受ける人ですよ」
「幽霊見える?」
「見えることもあります」
「じゃあ、お父さんも見える?」
香織が何か言おうとしたが、環が目で制した。
「悠斗君には見える?」
「うん」
「いつから?」
「お葬式の次の日」
「毎日?」
「うん」
「怖くない?」
悠斗は少し考えた。
「最初は嬉しかった」
その言い方に、環は引っかかった。
「最初は?」
「今はちょっと変」
香織が息を呑む。
「何が変なの?」
悠斗は母親を見る。
「言ったら怒ると思った」
「怒らないから」
「ほんと?」
「うん」
悠斗は環へ向き直った。
「お父さん、顔が違うときある」
室内の空気が重くなった。
「どう違う?」
「遠くから見るとお父さん。でも近くで見ると、なんか……」
悠斗は自分の頬を触りながら言葉を探した。
「顔が動いてる」
「動いてる?」
「お父さんの顔の下に、別の顔があるみたい」
香織が口元を押さえた。
蓮も何も言わない。
「ほかには?」
環が尋ねる。
「昨日、お父さんが僕の部屋の前にいたでしょう?」
「うん」
「扉、開けようとしてた」
「入ってきた?」
「ううん」
「どうして?」
悠斗は眉を寄せた。
「誰かが後ろから止めたから」
「誰か?」
「見えなかった。でも、ドアのところでお父さんの手が止まった」
環はゆっくり立ち上がった。
「悠斗君。今夜、お父さんが帰ってきても、絶対に近づかないでください」
「なんで?」
「確認したいことがあるの」
「お父さんじゃないの?」
その問いだけは、環にも簡単に答えられなかった。
「……まだ分かりません。でも、本当にお父さんなら、悠斗君に危ないことはさせたくないでしょう?」
悠斗はしばらく考えたあと、頷いた。
◇
環は夕方までに、三好真琴へ連絡を入れた。
調べてほしいのは、事故現場周辺の過去の死亡事故。
特に、水に関係するものだった。
返事が来たのは午後五時四十分。
『ありました』
「何年前です?」
『十四年前。場所はほぼ同じです』
環は電話をスピーカーにした。
香織と蓮も聞いている。
『男性一人が運転する車がガードレールを突き破って斜面へ転落しています。下には昔、農業用の貯水池があったらしくて、当時はまだ水が残っていたみたいです』
「運転者は?」
『死亡。四十六歳』
「名前は?」
『田代英二。ただ、事故そのものはありふれた単独事故として処理されています』
「ほかに何か?」
『気になるのは事故後です。同じカーブで、軽微な事故が何件か続いています。運転手の証言に「前方に人が立っていた」というものが二件。ただし警察は見間違いと判断しています』
蓮が低く言った。
「有名な怪談の元ですね」
『たぶん。それからもう一つ』
真琴の声が少し変わった。
『田代英二は当時、家族と別居中でした』
「家族?」
『妻と息子。事故の日、息子に会いに行く予定だったらしい』
環は黙った。
「息子さんの年齢は?」
『当時八歳』
香織が息を呑む。
◇
午後六時四十分。
環は玄関近くに立っていた。
香織と悠斗は居間。
蓮は廊下の端で記録用カメラを持っている。
「先生」
「何です?」
「本当に玄関の真横で待つんですか」
「ここから入ってくるなら、ここが一番分かりやすいでしょう」
「理屈は分かりますけど、俺ならもっと離れます」
「では離れていてください」
「そう言われると一人にするみたいで嫌なんですよ」
「面倒ですね」
「先生にだけは言われたくないです」
六時四十五分。
六時四十六分。
環は玄関の時計を見る。
六時四十七分。
鍵が回った。
実際には誰も触れていない。
金属音だけが玄関へ響く。
扉が少し開いた。
外の夕方の空気が流れ込む。
男が入ってきた。
黒いスーツ。
濡れた靴。
康介によく似た体格。
顔は曖昧。
環の前を通り過ぎる。
彼女の存在には気づいていないらしい。
男は靴を脱ぐ仕草をした。
実際の靴はない。
それでも悠斗は居間から顔を出した。
「帰ってきた」
香織の身体が震える。
男は食卓へ向かう。
いつもの席に座る。
「お父さん」
悠斗が呼んだ。
男は答えない。
環がゆっくり近づいた。
「あなたは西村康介さんですか」
反応がない。
「康介さん」
男の首が動いた。
その瞬間、環には顔が見えた。
康介ではなかった。
頬が痩せた中年男。
濡れた髪が額へ張りついている。
口元だけが、無理に康介の形を作ろうとして歪んでいる。
「違いますね」
環が言った。
香織が顔を上げる。
「先生?」
男が立ち上がった。
悠斗を見る。
「悠斗君、後ろへ」
環が言う。
男は廊下へ進んだ。
昨日と同じ。
悠斗の部屋へ向かっている。
「止まってください」
環は男の前へ立った。
初めて男が環を見た。
「帰る」
声が出た。
低く、濁った声だった。
「ここはあなたの家ではありません」
「帰る」
「あなたの息子さんは、ここにはいません」
男の顔が揺れた。
「息子」
「違います。この子はあなたの息子さんではありません」
「会う」
環は胸が痛くなるような感覚を覚えた。
「十四年前に、会えなかったんですね」
男の輪郭が崩れる。
「会う」
「そうしたかったんでしょう」
「会う」
「でも、この子ではありません」
その瞬間、男が環を押しのけようとした。
冷たい空気が身体を貫く。
環は壁へ肩をぶつけた。
「先生!」
蓮が駆け寄る。
「来ないで!」
男は悠斗へ手を伸ばした。
悠斗が後ずさる。
そのとき。
廊下の奥で、別の人影が現れた。
香織が息を呑んだ。
「康介……?」
今度は環にも分かった。
写真で見た顔。
四十一歳。
少し疲れたような目。
事故の日に着ていた濃紺のスーツ。
だが濡れていない。
康介は男の背後に立ち、その肩を掴んだ。
男が初めて大きく身をよじった。
「帰る!」
康介は何も言わない。
ただ、息子の前へ行かせないように押さえている。
悠斗が泣き出した。
「お父さん」
今度は、環は止めなかった。
康介が息子を見る。
口元が動いた。
環には声が聞こえた。
「ごめんな」
悠斗には聞こえなかったらしい。
それでも何かを感じたのか、泣きながら何度も頷いた。
香織は夫を見ることができない。
ただ、廊下の何もない場所へ向かって言った。
「康介、いるの?」
康介は妻を見る。
環が静かに答えた。
「います」
香織の顔が崩れた。
「何で私には見えないの」
「見えないから、いないわけではありません」
「ずるいよ」
香織は泣きながら笑った。
「悠斗には見えるのに、私には見えないなんて……。私だって、ちゃんとお別れしたかったのに」
康介は妻の前まで来た。
手を伸ばす。
触れることはできない。
「何か言ってます?」
香織が環に尋ねた。
環は康介を見る。
彼は口を動かした。
「ありがとう」
環はそのまま伝えた。
香織は顔を覆った。
「それだけ?」
康介が少し笑った。
もう一度口を動かす。
環も泣きそうになった。
「あと……『冷蔵庫の上の封筒、忘れるな』だそうです」
香織が顔を上げた。
「何それ」
泣きながら笑った。
「最後にもっと言うことあるでしょう」
康介の表情も柔らかくなる。
環には、その瞬間だけ、生きている家族の会話へ少し戻れたように見えた。
◇
問題は、まだ終わっていなかった。
康介に押さえられた男は、廊下の奥で形を崩しながら、
「息子」
と繰り返している。
「会う」
環はその前へしゃがんだ。
「田代さん」
男が止まった。
「田代英二さんですね」
顔がわずかに戻る。
「会いに行く途中だったんですね」
「息子」
「はい」
「約束」
「したんですね」
「今日、会う」
環は否定しなかった。
十四年前の男にとって、事故の日はまだ終わっていない。
家族と別居し、久しぶりに息子へ会いに行く途中で死んだ。
その思いだけが道路へ残った。
そして康介の事故をきっかけに、帰宅する人間の記憶へ引っかかった。
「でも、十四年経っています」
男の顔が歪む。
「違う」
「そうですね。あなたには違うんでしょう」
「今日」
「あなたにとっては、まだ今日なんですね」
環はできるだけ穏やかに話した。
「でも、息子さんはもう八歳ではありません」
男が震える。
「あなたが探している子は、この家にはいません」
「会う」
「会いたいですよね」
環は、その思い自体を否定できなかった。
父親として褒められる人物だったかどうかは分からない。
別居に至った理由も知らない。
それでも事故の日に息子へ会いに向かっていたことだけは事実だった。
「だから、ここにいてはいけません」
男は動かない。
「康介さんについてきたのは、たぶん帰宅する気配が似ていたからでしょう。でも、この家はあなたの家ではない。この子はあなたの息子ではありません」
男の輪郭が薄くなる。
「じゃあ」
かすかな声。
「どこへ行けばいい」
環はすぐには答えられなかった。
死者に行き先を教えられるほど、自分は万能ではない。
「分かりません」
正直に言った。
「私は、死んだあとのことを全部知っているわけではありません」
男が環を見る。
「でも、少なくともここではないです」
しばらくして、康介が男の肩から手を離した。
田代英二の姿が少しずつ薄れていく。
最後まで、彼は何度も後ろを振り返っていた。
やがて完全に消えた。
家の中から、湿った冷気が抜けた。
◇
康介も長くは残らなかった。
悠斗の前へしゃがみ、何かを話すように口を動かしていた。
環にはところどころしか聞き取れない。
「お母さんを……」
「泣かせるな……」
「宿題……ちゃんと……」
最後だけ妙に父親らしい。
悠斗は泣きながら言った。
「お父さん、もう帰ってこないの?」
康介は頷いた。
「嫌だ」
悠斗の声が震える。
「毎日帰ってきてよ」
香織が息子を抱き寄せた。
康介は二人を見つめていた。
環は口を挟まなかった。
こういうとき、きれいな言葉で納得させようとするのは違う。
子供が嫌だと言うなら、嫌でいい。
父親に帰ってきてほしいなら、そう思えばいい。
「お父さんも、帰りたいと思いますよ」
環は悠斗へ言った。
「でもね、帰りたい場所があるからって、ずっとそこにいられるわけじゃないんです」
「なんで?」
「お父さんも、次へ行かなきゃいけないから」
「どこに?」
「それは私にも分かりません」
悠斗が不満そうに環を見る。
「霊能者なのに?」
「霊能者でも、分からないことはいっぱいあります」
「テレビでは何でも分かってるみたいなのに」
「編集です」
蓮が思わず吹き出した。
香織も泣きながら笑った。
家族の空気が少しだけほどけた。
康介は、その笑い声を聞いて安心したように見えた。
最後に香織を見た。
香織には見えない。
それでも何かを感じたのか、夫がいると思われる場所へ向かって言った。
「康介」
声が震える。
「私、まだ怒ってるからね」
環が少し驚く。
「勝手に死んで、全部私に残して。保険の書類も分かりにくいし、車のローンだって残ってるし、悠斗の学校のことも、家のことも……何でも二人でやるつもりだったのに」
香織は涙を拭わなかった。
「ありがとうなんて、今はまだ言えない」
康介は黙って聞いている。
「でも、そのうち言うから」
香織は息子を抱きしめた。
「だから、それまで待ってなくていいよ」
康介が笑った。
そして消えた。
◇
冷蔵庫の上には、本当に封筒があった。
香織も知らなかった。
中には生命保険の担当者の名刺、住宅ローンの書類、それから一枚のメモが入っていた。
『もしもの時は、この順番で連絡すること。香織はこういう書類が苦手だから。』
その下に、連絡先が番号順に書かれている。
香織はそれを見て、また泣いた。
「何でこんな準備だけいいのよ」
蓮が困ったように環を見る。
「俺たち、席外します?」
「そうしましょう」
二人は静かに玄関へ向かった。
外へ出ると、夜の空気が思ったより温かかった。
「先生」
「何です?」
「あの田代って人、本当にもう大丈夫なんですか」
「分かりません」
「また出ましたね、その答え」
「仕方ないでしょう」
環は門の外から家を振り返った。
「ただ、少なくとも西村さんの家には戻らないと思います」
「康介さんが止めてくれたから?」
「それだけじゃありません」
「じゃあ?」
「自分が誰なのか、少し思い出したからです」
環は静かに言った。
「人は、自分の名前も、自分が何を待っているのかも分からなくなると、別の人の人生へ入り込むことがあります。生きている人だって、似たようなことはするでしょう」
蓮は少し考えた。
「人の家庭を自分の居場所だと思い込むってことですか」
「ええ。死者だけが特別に厄介なわけではありませんよ」
◇
三日後。
西村家から電話があった。
玄関の鍵が勝手に回ることはなくなった。
食卓にも誰も座らない。
悠斗は最初の夜だけ泣いたという。
翌朝になると、
「お父さん、ちゃんと行ったならいい」
と学校へ行ったらしい。
『それから、久世さん』
香織が電話越しに言った。
「はい」
『事故のことなんですけど、警察から連絡がありました』
「何か分かったんですか?」
『夫の車のドライブレコーダーをもう一度確認してくれたそうです』
環の手が止まった。
『事故の直前、夫が急にハンドルを切っていました』
「何か避けた?」
『そうみたいです』
「映像には?」
香織は少し黙った。
『誰も映ってないんです』
環は返事をしなかった。
『でも夫、事故の一秒くらい前に言ってるんです』
「何て?」
『「危ない、人がいる」って』
電話が切れたあとも、環はしばらく受話器を持ったままだった。
田代英二が事故を起こしたカーブ。
そこで何年も、前方に人影を見たという証言が残っている。
康介も同じものを見たのかもしれない。
そして事故の瞬間、何かを連れて帰ってしまった。
完全な証明などできない。
それでも、一つだけ環には引っかかるものがあった。
田代英二は十四年間、あの場所へいた。
ならば、それ以前に目撃されていたという「道路に立つ人影」は何だったのか。
その夜。
久世相談室の電話が鳴った。
「はい、久世です」
『あの……少しお聞きしたいんですが』
男の声だった。
「どうされました?」
『関東地方の某県にある、あの山道をご存じですか』
環は黙った。
『最近、車でそこを通ったんです。助手席に友人を乗せて』
「それで?」
『カーブを曲がったら、女の人が立ってたんです』
「道路に?」
『はい。急ブレーキを踏みました。でも、友人は誰も見てないって言うんです』
環は机の上のメモ帳を引き寄せた。
「そのあと、何か起きましたか?」
電話の向こうで、男が息を呑んだ。
『昨日から、助手席に誰か座るんです』
環はペンを止めた。
『その女、まだ家までついてきてるんです』
第25話 廃遊園地の観覧車だけが回っている 閉園して十二年。 電気も切られ、制御盤も撤去された観覧車が、午前二時四十分になると動き始める。 一周目、ゴンドラには誰もいない。 二周目、一人。 三周目、二人。 回るたびに子供が一人ずつ増えていき、七周目で観覧車は止まる。 そして三日前から、その七人の中に、現実に行方不明になっている七歳の少女が映っていた。 ◇「最初に申し上げておきますけど、この映像に結衣ちゃんが映っているからといって、亡くなっているとは限りません」 久世環は、相談室のモニターに映った少女から目を離さずに言った。 佐藤結衣。 七歳。 小学一年生。 三日前の午後三時半ごろ、自宅から姿を消した。 母親がほんの二十分ほど買い物へ出た間のことだった。 自宅には小学五年生の兄もいたが、二階の自室でゲームをしており、妹が外へ出たことに気づかなかったという。 防犯カメラには、自宅から一人で歩いていく結衣が映っていた。 その後、住宅地の外れで一度だけ確認されたが、そこから先の足取りは分からない。 警察と消防、地元住民が捜索を続けている。 閉園した遊園地までは、結衣の家から直線距離で三キロ近くある。 七歳の子供が一人で行けない距離ではない。 だが、なぜそこへ向かったのかは不明だった。「でも、この子ですよね」 佐伯蓮が動画を一時停止する。「家族が確認したなら」 三好真琴が頷いた。「母親は『結衣に見える』と言っています。ただ、映像が荒い。警察も本人と断定はしていません」 ゴンドラの窓越し。
第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引
第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った
第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。 ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入
第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」
第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった 鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。 最初に気づいたのは母親ではない。 九歳の娘本人だった。「お母さん、私、変な顔してる?」 日曜日の朝。 洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。「寝起きだからじゃない?」「そうじゃなくて。鏡の私」「鏡の私?」 遥香はファンデーションを塗る手を止めた。 鏡には、母娘が並んでいる。 遥香。 美緒。 どこにも変なところはない。「普通じゃない?」「でも、私笑ってるよ」 遥香は娘を見る。 美緒は確かに笑っていた。 前歯が一本だけ少し内側へ入った、いつもの笑顔。 ところが鏡の中の美緒は、笑っていなかった。「……え?」 遥香は目を擦った。 もう一度見る。 鏡の美緒は笑っている。「ほら、笑ってるじゃない」「今はね」「見間違いよ」「昨日もだった」 遥香は軽く流した。 子供の言うことだと思った。 それから一週間。 鏡の中の美緒は、少しずつ現実の美緒と違う動きをするようになった。 髪を結ぶとき、現実の美緒が右を向いているのに鏡の美緒は正面を見ている。 顔を洗ったあと、現実の美緒がタオルで目を覆っている間だけ、鏡の美緒が母親のほうを見る。 そして笑わない。 決定的だったのは、